第一話『はじまり』 担当者:あやにょ
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 ユニバール大陸北東部の春は遠い。それでも、十日前よりは暖かい、そんな気がする。
 冬も終わりかけている、新月の晩。旅装の若い娘が、白い息を吐きながら森の中を歩いていた。
 十代後半だろうか。まだ少女と言っていい外見の娘だ。
 時刻は夜半を過ぎている。普通なら、こんな子どもが一人で外を歩いたりはしないだろう。ただ、彼女は見た目ほど子どもではなかったし、普通でもなかった。
 彼女は、その界隈では「勇者リィネ」と呼ばれているのだ。
 リィネが勇者と呼ばれ始めたのは一年前からだった。本人は自分のことを勇者だなどとは思っていない。いや、周囲も、彼女の勇者らしからぬぼんやりとした雰囲気ゆえに、リィネが勇者と呼ばれていることを忘れていることが多い。
 実際、リィネの剣の腕はたいしたことはない。せいぜい自分の身を守る程度だ。他の武術もたしなむ程度。それでも、彼女が人の生活を魔族の危険から守ることができるのは確かだった。彼女は魔法を使うのだ。
 本来、「勇者」という称号は魔法使いに与えられるものではなく、武術に優れた者を讃える称号だ。神聖魔法の使い手は武術にも優れていることが多いから、彼らにはしばしば「勇者」の称号が与えられる。しかしリィネは武術がそれほど得意でない。魔法も神聖魔法ではなく、召喚術の一種だ。
 それでも彼女は「勇者」と呼ばれた。それ以外に、魔族から人々を守る者を讃える言葉を、周囲は持っていなかったから。
「よくわからない魔法を使うが、強いらしい」
「彼女が来れば魔族による被害がとにかく収まる」
「しかも剣を使わないらしく、滅多に血を見ない」
「魔族の死体が出ることもないらしい」
 そういう評判が立って、最近は依頼も増えた。しかも、ここ二年ほどは「世界のバランスが崩れている」とか何とかで、魔族の発見される数が急に増えている。
 その割に彼女に回ってくる話が少ないのは、リィネが辺鄙な村に住んでいることと、それから彼女がちっとも勇者らしくないため、噂を頼りに依頼に来た人が彼女を見つけられないことが原因である。
 とはいえ、リィネはそんなことを気にしてはいない。
 海沿いの小さな漁村ショルティで久々に依頼された仕事を終え、召喚獣とともに帰途について丸一日。さすがに疲れが溜まっている。それでも、あと三十分も歩けば家につくだろう。そう思えば、村への帰り道を行くリィネの歩調は自然と軽くなる。
 森の端のほうにある道とはいえ、今夜は新月、辺りは暗い。そこを、灯りもなしにリィネは歩く。
 夜は、好きだ。
 以前は人目に付かないようにしなければならなかったけれど、今は以前に比べれば人目を気にすることもない。
 心も歩調も軽やかに、少女は歩く。焦げ茶色の髪がフワリと跳ねて、木々の間から漏れてくるわずかな星明かりをはじく。
 それにしても、なんだろう。今日の森は、何だかおかしい。
 例えば、鳥たちに落ち着きがない。夜行性の鳥たちはもちろん、いつもなら寝ているはずの鳥たちも、ギャア、ギャア、と鳴いては羽ばたく。
(鳥さんたち、緊張しているみたい。どうしてだろ?)
 そう思いはするが、リィネの信条は『考えてもわからないものは考えない』。
(ま、いいよね)
 てくてくてくてく、と歩を進める。
 森を抜けるまであと少し、というとき。
 ドォン、という大きな音に、リィネは焦げ茶色のどんぐりまなこを見開いた。
 驚いた数百数千の鳥たちがザザザザザ、と海鳴りにも似た音を立てて飛び立つ。異常を知らせるかのように一層けたたましく鳴き叫ぶ。ザワリと木々が揺れる音。右後方から近づいてくる、奇妙な地鳴り。そして……右手から突風!
「きゃっ!?」
 リィネは傍にあった大木の影に慌てて身を寄せた。
 頭上では、風にもぎ取られた枝が、道の反対側の木々にぶつかっていく。落ちかけた枝が再び風に拾われ、さらに遠くへ運ばれていく。
 リィネは根元にしゃがんでフードをかぶり、風が収まるのを待った。
(爆発? ……だよね、今の)
 確かに、爆発音だった。今の突風は爆風だろう。
(森の奥のほう?)
 やがて、風が止んだ。鳥たちも、先ほどまでの喧噪が嘘のように黙り込んだ。森が、静寂に包まれた。
 木の陰から立ち上がり、森の奥を見やる。
 爆発なら炎があがるかと思ったが、火の手は見えない。
 動物しか住んでいないこの森だ。動物は大きな音を嫌うから、野次馬になれるのは自分だけ。そして、好奇心はたっぷりある。大きく見開かれた瞳がキラキラ光った。
「こっち……だったよね。右向け〜右っ」
 森の中央に向かって、方向転換。
 枯れ草をかき分け、折れて飛んで来たのだろう大量に落ちている枝を除けながら、少女は細い獣道を歩き出した。

 しばらくの後、リィネは開けた場所にいた。森のちょうど中央付近だ。
(ここって、こんなふうだったっけ?)
 記憶を探る。この森はだいたい歩き尽くしたから、よく知っている。ここは、たしかに少し開けた場所ではあったけれど、直径二百グレーザ(メートル)もある円形広場ではなかったはず。それに、どうして草が根こそぎ無くなって地面が露出しているのか。なぜ、広場の周囲の木々が外側に向かってなぎ倒されたり、奇妙に歪んだりしているのか。
 爆発があったのは、確かにここだ。爆風に煽られたのであろう木々の様子を見ても、それは間違いない。
 としたら、いったいどんな爆発だったというのだろう。
(何かの魔法? 突風が来たから風系の魔法……ううん、それだったら魔法の痕跡がもう少しは残ってもいいはずだし……)
 魔法に自信があるリィネだ。目に見えない、魔法が使われた痕跡をたどるのもそう難しいことではない。
 風系の神聖魔法は、他の魔法に比べて痕跡が残りにくい。だけど、この短時間にここまで綺麗さっぱり痕跡が消えるなんて、ありえない。
(爆発は、ここじゃなかった?)
 いや、それは違う。確かにここだ。それはわかる。
「危険……かな?」
 リィネが呟いたとき、どこからか声がした。
『だったら近づくのやめようよ』
 美しいボーイソプラノ。その声に驚きもせず、少女は首を傾げつつ口を開いた。
「でも、面白そうじゃない?」
 姿無き声の主は、ため息をついたようだった。
『……危険だってば』
「そうかな?」
『すんごく危険だってば! 嫌な感じがする。気付いてるんだろ? さっきから、生き物の気配全然しないしっ、空気も全然動いてないしっ、気持ち悪いよ、ここ!』
 たしかにその通りだった。先ほどまでは感じられた生き物の気配が、全く感じられない。それに、いくら深い森でも空気の動きはあるはずなのに、それがない。不自然な、静けさ。
 声は必死に危険を訴えたが、少女は意に介さなかった。
「まあまあ。いざとなったら、にょろが助けてくれるでしょ?」
『にょろって呼ぶのやめてよぅ』
 泣きそうな声が抗議する。
 その時、リィネの眼は百グレーザほど先にある何かを捉えた。何か白くて長い物。
「あ、何か見〜つけたっ」
『リィネ〜〜、帰ろうよ〜〜〜』
 情けない声をあげた≪にょろ≫にはかまわず、少女はそちらに向かった。
「こ〜れは〜いった〜い何だ〜ろうっ? ……」
 妙な節回しで歌いながら近づき、白い物体を見下ろす。
「……人だぁ」
『人……だね』
 ちょうど円の中央にあたるところに、細身の青年が仰向けに倒れていた。
 薄い茶色の髪は土に汚れていたが、白い肌には汚れ一つない。おとなしそうな、整った顔立ち。
 年の頃は二十代前半か、もしかしたら後半かもしれない。
 リィネが鼻孔に手を近づけると、微かに息をしているのがわかった。よく見れば胸も上下しているから、どうやら生きている。
「ねえ、にょろ……これって、神官の衣服じゃない?」
 男の全身を覆う白い衣服は、神殿の理法神官のそれに酷似していた。
『似てるけど、ちょっと違うよ』
「そう?」
『すそのところを見てよ』
 リィネはしゃがみ込んで、男の真っ白な長衣をそっとつまんでみる。思ったよりも生地は薄かった。
『神官だったら、刺繍があるだろ。これは刺繍が全然ないから、あの事は心配しなくていいと思うよ』
 少女はほっと息をついた。
「ちょっとごめんね」
 意識のない男に向かって謝りつつ、男の長衣の袖をまくると、白い腕が露わになった。そうして両腕を確認する。
「顔も首も、腕も真っ白。ってことは、少なくともこの人が神聖魔法でやったわけじゃないってことね」
 神聖魔法は、特殊な紋章を身体の決まった部位に彫ることで扱うことができるようになる。その紋章がないということは、神聖魔法が使えないということなのだ。
『……それはそれでますます嫌な予感〜〜』
「さて、ど〜うしようっかな〜?」
 立ち上がったリィネの言葉の奇妙な音程に、≪にょろ≫はため息をついた。リィネの思考回路はだいたいわかっている。このふざけた口調は、やることをとっくに決めているときの口調だ。
『……連れてくの?』
 案の定、リィネは首肯した。
「うん、連れてく」
『ぼく、やだかんね』
 ≪にょろ≫のツンとした口調に、リィネは首をひねった。
「何で? もうすぐ春だけどまだ寒いし、置いてったらきっと死んじゃうよ?」
『そうだけど、やだ』
「どうして?」
『なんか、やな感じ! そいつがリィネの家に入るなんて』
「何で?」
『どうしても!』
「だから、何で?」
『やな感じ!』
「だから、何が?」
『何か!』
「だから?」
『やだ!』
「なんで?」
『……リィネの意地悪〜〜っ』
 そこで少女はポン、と手を打った。
「もしかして、この人重くて運べない?」
『違う〜〜っ。……とにかく、やな感じなのっ!』
「だから何で?」
『嫌なものは嫌なんだもん』
「だからどうして?」
 ……いい加減にせい。
 と誰かが言ったわけではないが、リィネは一旦その会話をうち切った。
「で、にょろ、それはそうと……運んでくれる?」
『……ぼくらがリィネに逆らえないの、知ってるくせに』
 リィネの目が、哀しげな色を帯びた。
「命令じゃないよ。お願いしてるの。……ね?」
 微かなため息が聞こえた。
『しかたないね』
 その言葉と同時に、リィネの右手首にあった金の輪が形を変え、細く短い紐となって宙に浮かぶ。それはすぐに光を帯びて質量を増し、……光が消えると、そこに十歳前後の少年が姿を現した。彼女と一緒に帰ってきた召喚獣だ。
「にょろ、本当に運べる?」
 少女の問いに、ふふん、と少年は金の髪を揺らして鼻で笑った。
『これくらいなら平気だよ。リィネ、ぼくを何だと思ってるのさ』
「ヘビ」
 間髪入れぬリィネの答えに、少年は首をぶんぶんと振って叫んだ。
『違う〜っ! ヘビが人型をとれるわけないだろ!?』
「そう?」
 ≪にょろ≫はがっくりと肩を落とした。愚痴をこぼしつつ、その手が男に触れる。
『痛っ』
 全身を貫いた痛みに、慌てて彼は手を引いた。
「どうしたの?」
 リィネの問いに、少年も首を傾げた。
『……わかんない。静電気……かな?』
 恐る恐る、もう一度触れる。今度は何ともなかった。ただ、奇妙な感じがする。とても奇妙な感じ。だけど、知っている感覚。それなのに、それが何なのかわからない。
 ≪にょろ≫は八つ当たりよろしく毒ついた。
『やっぱりやな感じ!』
「まあまあ」
 リィネに頭をポンポンと軽く叩かれて、少年姿の召喚獣は黙った。男の身体を小さな背中にそっと担ぐ。不思議なことに、男の足は引きずられることなく、数セディ(センチメートル)だけ宙に浮いた。よく見れば、少年の足も地面から少し浮いている。
『……父ちゃんのバカ……』
 何だってこんな天然な子どもと契約したのさ。
 いつもいつも、そう思うのだけれど。
「ありがとうね、にょろ」
 リィネにそう言われると、満足してしまう≪にょろ≫だった。
『でも、リィネ』
「なに?」
『こいつと一緒に住むなんて、やだかんね!』
「……うちに人がいてくれたらいろいろ便利だよ? ご飯作ってもらったり、洗濯してもらったり、掃除してもらったり」
『そうだけど、ぼく、やだかんね』
「だから、どうして?」
『だからぁ、やな感じなんだってば』
「何が?」
『こいつが』
「なんで?」
『やなんだもん』
 リィネのことを天然と言うが、この少年もかなりのものだろう。
 二人の堂々巡りの会話は、元の道に戻って森を抜けて、家に着くまで続いた。

 ……大陸を震撼させる事件は、ここに始まる。

2001.01.15

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