第二十二話『覚醒』 担当者:あやにょ
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 ゼイルは念のため別の道をたどって家の裏に戻ってきた。
 周囲に人の気配がないことを確かめながらそっと近づいて、開いたままの勝手口から家の中をそっと覗き込む。
 明かりはついたままだった。
 物音もしないから、とりあえず中に入ってみても大丈夫だろう。ゼイルはそう判断して、しかし警戒は解かずに家にあがりこんだ。
 物音が全くしない。小さな声で呼んでみる。
「佳瑠さん?」
 返事はない。寝室やリビングを確かめるが、とくに荒らされた様子もない。どうやら家の中には誰もいないようだ、とゼイルは結論づけた。
 玄関に向かう。扉は全開だった。いや、よく見ると、扉自体がなくなっているのだ。
 ゼイルは外を見るために玄関から顔を出そうとした。壊れた蝶番に何気なく手を触れ、刺すような痛みに驚いて手を引く。身をかがめ、蝶番をまじまじと見つめた。
「え、……凍ってる……?」
 玄関の外に据え付けられた小さなランプの光を頼りに玄関の外に目を凝らすと、もとは扉だったらしき木片がたくさん、うっすらと白い氷をまとって落ちているのがわかった。
(……この分だと、外から扉を破られたわけじゃなさそうですけど)
 ゼイルは外に出て周囲を見回した。誰もいない。気配もしない。
 両手を口元にあて、思い切って大きな声で呼んでみる。
「佳瑠さーん! どーこでーすかー! おーい!」
 やはり返事はない。嫌な予感がした。
 探して、そして助けなければならない、という衝動がわき起こる。
(逃げろっていわれたのに)
(自分に何ができるわけでもないのに)
 それでも、どうしてだろう、佳瑠を追いかけなければならない気がするのだ。
 どこかぼんやりした思考の中で、ドクンドクンと不思議な動悸を感じる。自分のどこか奥底からせき立てられているような、奇妙な動悸。全身がザワザワする。いてもたってもいられない。
 そのとき、視界の隅で鈍く光るものがあった。続いて低い轟音と振動が伝わる。微かに、しかし確かに。
 ゼイルは視線をそちらへ返した。藪の向こうに深い森がある。
 その森の奥がもう一度、鈍く光った。



闇夜を切り裂く雷(いかずち)よ、来たりて我が前の敵を撃て。雷龍!
 佳瑠の前に、雷を発する黒雲が現れた。それはもくもくと大きくなって、二つに分かれると先程の水龍のように長大な龍の形となり、勇者たちめがけて襲いかかった。
(大地の神よ!)
 グラティスは地面に突き立てていた剣の柄を無意識に強く握りしめた。思わず息を止める。
 グラティスの心の声に応じたかのように、大地からふわりと見えない力が放たれた。それが盾の役割を果たし、龍が彼の目の前で霧散する。どうやら彼の祈りが通じたらしい。大地の力が増し、同時に癒しの力も最前より強く流れ込んでくるようになった。
 グラティスは目を閉じてふうっと息を吐いた。自分の無事が少し信じられない。
(あいつは……?)
 ハッと顔を上げ、同僚の名を叫んだ。
「アルカス!」
 魔法神官を黒い雲の龍が締め付けていた。バチバチと音を立てて幾度も電撃が光る。その激しさと眩しさに、グラティスは目を庇った。
 直接与えられる衝撃で、アルカスの身体が立ったまま跳ねる。アルカスは声もなく、体を反らせている。
(なんてこった)
 これではとても手が出せない。何も出来ないグラティスの前で、雷をまとった雲がフッと消えた。アルカスがうつぶせに倒れる。力を無くした身体が大地に跳ねた。
「アルカス──っ!!」


 どん、と全身が振動した。
 ああ倒れたんだな、とわかった。
 不思議と痛みは感じない。
 ただ、あの敵を倒したかったという気持ちだけが、深く重く渦を巻く。
 憎い魔族。
 網膜に焼き付いた、長い黒髪の男。
 それに重なるようにもう一つの人影が脳裏に浮かび上がる……黒髪の女の影が。
 あれは何だ。
 敵だ。敵だ。滅するべき敵。
 魔族。上級魔族。
 そう、あれを倒すのだ。倒さなければならない。
 その力は自分にあるはずなのに──奇妙な確信。
 どこだ。どこにあるんだ。
 何かを探すように、意識を周囲に巡らせる。
 答えはすぐそばにあった。
 ゆっくりと明滅を繰り返す、真っ白な光の球。
 黒みがかった茶と赤の紐が何本か絡まっているのが不愉快だった。
 そうだ、「これ」を使えばいいんだ。
 誘惑するように光が明滅する。
 どうして今まで気づかなかったのだろう。「これ」はずっと自分の中にあったのに。「これ」さえあれば敵を倒せる!
 光に手を伸ばす。しかし、紐がそれを妨げる。光球にからまりつく二色の紐が。
 こんなものは払いのければいい。邪魔だ!

 朦朧とする意識の中、必死で彼は「それ」をつかみ取り、眩しい光に灼かれ、
 ……それからしばらくの間、彼の意識は途絶える。


 武法神官が雷龍の攻撃を防ぎきったのは佳瑠にとってやや意外だった。
(あの防御力の高さ、さすがは地の神剣というところか)
 実のところ、オル・ハ・ザークをあの森の中で闇と魔力の呪縛から解き放ったのは佳瑠自身なのであるが、さすがに覚えてはいない。
 意識をこらしてみれば、大地の力が灰色の髪の男に流れ込んでいくのが感じられる。おそらく治癒が進んでいるはずだ。
(魔法神官はあの雷撃を受けては起きあがれまい。それなら、武法神官への攻撃に集中できる)
 そう考えたとき、うつぶせに倒れていた魔法神官が身じろぎした。佳瑠がそちらに目線をやると、アルカスはゆらりと立ち上がった。ゆっくりと、右手の剣を杖代わりにして。
 これまでの佳瑠の攻撃による傷や衝撃に加え、雷龍の電撃によってあちこちに火傷もできている。もはや身体も精神もぼろぼろのはずだ。それなのに、数歩前に出てくる。
「まだ動けるのか……」
 素直な感嘆を含んだ佳瑠の声が響く。
 と、うつむいたままのアルカスが何かを詠唱した。彼の左手がすうっと上がる。それと同時に、歪んだ気配を佳瑠は感じた。
(……!)
 自分でもよくわからないまま、佳瑠は本能的に不可視の防壁を張った。次の瞬間、激しい音とともに佳瑠を眩しい炎が襲った。直前に完成した防壁にぶつかって、炎は派手に弾け散る。
(さっきの妙な気配は何だ? いや、今も伝わってくるこの気配は)
 あの魔法神官の気配なのに、何かが決定的に違う。
 ともあれ、佳瑠は攻撃に転じるべく防壁を解こうとした。だが、防壁を解く前に、続けざまに攻撃魔法が防壁に叩き付けられてきた。その圧力に押されそうになり、佳瑠は気を引き締めた。
(これまでの攻撃とは様子が違う。これは……?)
 休みなく叩き付けられる魔法に対抗するために、佳瑠は防壁を補強した。しかし、数秒後にはピシッという不快な音が耳をかすめた。防壁の限界を示す音だ、と思うと同時に防壁が弾け飛ぶ!
 ……グラティスは、魔法を繰り出し続けるアルカスを呆然と見ていた。
 イラプション、ライトニングアロー、クリアライト、ファイアストーム、ライトダガー。その他、自分が知らない魔法もいくつか混ざっている。次々と繰り出される魔法による連続攻撃は壮観といってよかった。
 佳瑠の様子はアルカスの魔法の効果が派手すぎてほとんど見えない。しかし、これほどの怒濤の攻撃を受けては、こちらに移動してきたり攻撃をしかけてきたりする余裕はないだろう。
 だが、グラティスは不安になった。
(アルカス、何かおかしくないか?)
 今のアルカスは攻撃を魔法だけに頼っている。これは珍しい。例えば足を怪我して動けないとしても、魔法にこんな頼り方をするような男ではないはずだ。
 そもそも、下位魔法ならわかるが、上位・中位魔法までかなり簡略化した呪文で間断なく連ねているというのがおかしい。アルカスの特訓を間近に見ていたグラティスは、彼にそんなことができるはずがないと知っていた。だいたい、そのようなことができるのであれば最初からやっているはずだ。
(つーか、やってなかっただけだとしたら後でぶん殴る)
とグラティスは心の中で毒づく。
 それは置いておくとしても、これは由々しき事態だ。ただでさえ体力も精神力も尽きかけているはずのアルカスが、こんな無茶をしたらどうなるか。
(死ぬぞ、おい)
 相打ちになってでも敵を倒せ、というのが神殿の勇者たちに課せられた使命だ。勇者たちはそう叩き込まれている。しかし、アルカスは一応最年少で勇者になった出世頭、死なせるのはもったいない。
 グラティスは座り込んだまま同僚に向けて怒鳴った。地面に突き刺した神剣の癒しの力によって、その程度の体力は戻ってきている。
「一旦退け、アルカス!」
 だが、アルカスは魔法攻撃をやめない。次々と簡略詠唱を続ける。
「おい、この馬鹿! 刺青野郎! 人の話を聞け!」
 グラティスが何度呼びかけても、アルカスは冷たい気を発したまま、上級魔族に向かって次々と攻撃魔法を放ち続けている。闇の中で魔法が織りなすさまざまな色の乱舞は止まらない。
 武法神官は悟った。アルカスは聞いていないのだ。というより、聞こえていないのだ。おそらく、グラティスの存在自体が意識から消えている。
 何かのたがが外れたかのように威力の強い攻撃呪文を見境なく発しているアルカスは、とても冷静とはいえない。しかし、熱くなっているわけでもないようだ。というのは、詠唱の口調があくまでも静かだからだ。
 あれだけの魔法を繰り出す精神力がどこにあるのかわからないが、とにかく戦術も何もなく、ただ淡々と敵への攻撃を続けている──まるで、からくり人形のように。
(いったいどうしちまったんだ、あいつは)
 いつの間にかアルカスの顔が上がっていた。感情が綺麗にぬぐいさられたかのようなその横顔はどこか不気味で、グラティスはぞっとした。
 やがてアルカスは魔法を止めた。最後のとどめのように、上位攻撃魔法イラプションの炎が佳瑠に向かう。イラプションはアンデッドを軽く消し炭にするくらいの威力を持つ爆発的な炎の魔法だ。その炎の固まりは、グラティスが以前見たときよりもはるかに威力を増している。しかし、それは弾かれたらしい。一瞬炎は激しさを増してあたりを明るく照らし、上方へと進む向きを変え、戦場を覆う結界に吸収されて消えた。黒煙があたりに広がったが、それも次第に薄れる。
 グラティスは次々と放たれた魔法の眩しさに目を奪われていたが、闇が戻るとすぐに暗闇に慣れるよう努めた。目が月明かりに慣れるにしたがって、佳瑠の様子が明らかになる。グラティスは息を呑み、思わず叫んだ。
「そんなんありかよ!?」
 上級魔族は、最前とほとんど変わらぬ様子で立っていたのだ。
 だが、佳瑠といえど無傷ではいられなかった。狂ったように叩き付けられる魔法に防御壁を破られてからは、同程度の魔力や魔法をぶつけて相殺し、直接腕で跳ね飛ばし、あるいは逸らし、新たな防御壁で受け止め、と全力で防御に徹したにもかかわらず、その防御をかいくぐってきた魔法がいくつかあったのである。衣服はあちこちが無惨に切れている。いくつかの魔法は肌に傷を付けており、血がにじみ出ていた。右の頬にも鋭い切り傷が一本走っている。そこからつうっと流れ出した鮮血は、白い肌に映えた。
 さすがに佳瑠の息が荒く弾んでいる。額から幾筋もの汗が流れた。ここまで防戦一方になったのは実に久しぶりのことだった。
(……彼は危険だ。気はすすまないが、やるしかない。──今度こそ仕留める)
 佳瑠は決断した。何としてもあの魔法神官を攻撃不能にしておかねばならない。すっと細身の剣を構え直した佳瑠の、夜色の瞳が鋭さを増す。
(手加減はできない。すればこちらが危うい。全力で彼を倒す)
 佳瑠の気迫が伝わったか、アルカスが再び左手を宙に翳した。
 まさにそのとき。
「佳瑠さん、ここにいたんですか!」
 戦場に声が響いた。佳瑠の背後から結界を越えて、茶色の髪の純朴そうな青年が姿を現したのだ。佳瑠には声だけでそれが誰だかわかった。うかつにも、反射的に振り向いていた。
「ゼイル殿っ!?」
 佳瑠に隙ができた。アルカスが囁くような小声で素早く簡略詠唱する。
光よ、敵を切り裂け……ライトダガー
 光の中位攻撃魔法の一つだ。佳瑠の周囲で光が激しくまたたいたかと思うと、乱舞する刃となって全身を襲った。
(しまった!)
 佳瑠がとっさに展開した防壁は不完全だった。いくつもの刃が見えない壁を突き破る。光の筋が幾本も迫り──ザクリ、という嫌な音がした。左の肩と横腹、腿が特に深く切り裂かれ、佳瑠は小さな苦痛の声をあげて片膝をついた。
 破けた服の下でパックリと開いた傷口から血が溢れ出すのを感じる。佳瑠は剣を持ったまま右手の拳で左肩の傷口のあたりを押さえた。下ろしたままの左手で左脇腹の傷口を圧迫する。
 光の魔法はたとえ物理的に作用する攻撃魔法であっても、魔族がそれを受ければ精神力まで削ぎ取られる。肉体に傷を負えばダメージはより深くなる。今度は完全に虚を突かれたこともあり、佳瑠にはかなりの負担となった。
(く……光の傷でここまで消耗させられるとは)
 佳瑠は大抵の光の魔法には耐えられる。が、さすがに何度も繰り返し受けるのは厳しい。まして、光でつけられた傷は、そこから身体の中を少しずつ蝕んでいく。
 急に身体が重くなった。身体の中を光がうごめいている気がする。
(前に受けた光の魔法によるダメージも今ので相当増幅されたか……)
 あまりの苦痛に、眉の間には縦皺が刻まれ、形の良い唇は歪んで小さな呻きを漏らす。すぐに治癒魔法を唱えるが、光による損傷は直りにくい。溢れる血が止まりかけては流れ出す。
「佳瑠さん! 大丈夫ですか!?」
 佳瑠は顔を上げた。長い黒髪が数本、血と汗で顔に張り付いた。ぱたぱたと駆け寄って来たゼイルに、痛みをこらえながら言う。
「ゼイル殿、何故戻ってきた……!」
「何故って……」
 このとき、遅まきながらゼイルは自分の行動が間違っていたことを察した。身の内から湧き上がる奇妙な衝動に突き動かされてここへやって来たが、やはり自分は邪魔だったのだ。
(どうして来てしまったんだろう)
 落ち着いて考えれば、自分は隠れているのが最善だとわかったはずだ。落ち込みながら、ともかく佳瑠の目の前にしゃがみこんで「すいません」とあやまろうとして、ゼイルは声を飲み込んだ。
 佳瑠の肩越しに、額に入れ墨をした鎧姿の若い男──魔法神官が左手をこちらに向けるのが見えたのだ。
我が内に宿る神々への忠誠を……
「おい、アルカス!?」
 グラティスは声をあげた。アルカスが始めた詠唱はたしかクリアライトだ。このまま魔法が発動されれば、上級魔族だけではなくあの茶色の髪の青年にも光球がぶつかるだろう。あの青年はあの家を訪れたときに魔族の後ろにいた奴だ。魔族かも知れないが、一般人の可能性も大いにある。佳瑠が魔族であることを知らずにいただけだという可能性も高いのだ。それにも関わらず、いや、そんなことにはお構いなしに攻撃魔法を発動させようとするアルカスに驚いたのだ。
(いくらなんでもまずいだろそれは!)
「やめろ、馬鹿!」
 剣を杖代わりに立ち上がったグラティスが制止するより早く、アルカスの詠唱が完成した。いくつもの光球が生まれ、うずくまる佳瑠とゼイルに襲いかかる。
 佳瑠は背後に迫る光球の気配を感じたが、消耗しすぎており対応できなかった。身体の中で光が乱反射を繰り返しているような感触が苦痛を蓄積させていく。せめてゼイルを庇うための防壁を作ろうとするが、とても間に合わない。
 ゼイルにも、その光球がとてつもなく危険なことは想像がついた。だが、対抗できるわけがない。目の前を眩しい光が覆い、思わずゼイルは目をつぶった──その瞬間。
(バカヤロウ、死ニテェノカ!?)
 ゼイルは、自分ではない何かの声を聞いた。……自分の中から聞こえてきた。
(えっ)
 身体の奥底で何かがうごめいた。むくり、と何かが頭をもたげて起き上がってくる。時間がやけにゆっくりと流れているような感じ。目眩にも似た酩酊感。速まる鼓動、ズキンズキンと脈打つように痛み出す頭。
 すべての感覚が鋭敏になると同時に、自分の意識が内側に収束していき、外の世界がぐんぐんと遠ざかっていく気がした。
(アア、モウ、フザケテンジャネェゾ!)
 その声とともに、内側からわき起こってきた透明な紅色の何かがゼイルの意識に重なり、通り過ぎていった──外へと向かって。
「ったく、見ていてイライラするんだよ!」
 佳瑠は見た。二人の神官も見た。茶色の髪のさえない青年から膨大な魔力が突然あふれ出すのを。そして、アルカスの放ったクリアライトがはじき飛ばされて拡散し、佳瑠の作った半球状の闇色の結界を照らし出すのを。さらに、恐ろしいほどの魔力が、立ち上がった青年の髪と瞳の色彩を夜目にも鮮やかな紅色に変化させるのを。
 グラティスはとっさに神剣を地面から抜き、切っ先を青年に向けていた。赤色の青年から発せられているのは、さほど魔力に敏感ではない彼でも尋常ではないとわかるほどの魔力……揺らぎを目で確認できるほどの、圧倒的な。
 グラティスは気力を振り絞り、目に力を込めて青年を睨みつけることで、魔力から受ける圧迫感が恐怖に転換するのを防いだ。心のどこかに生まれかけていた恐怖を何とか押し殺したが、それでも無意識に後ずさりそうになる。必死にその衝動をこらえながら、グラティスは直感的に思った。
(まさか、こいつが魔王か!?)
 でも、と彼は思考を続けた。
(魔王といったら、身の丈が10グレーザはあって角や尻尾が生えてて、髑髏の付いたベルトをしめて光沢のある黒いマントに身を包んで酒杯を手に高笑いして登場するってのが普通じゃないのかよ!?)
 ……ここでグラティスを笑ってはいけない。市井では恐ろしがられてあまり語られはしないが、これよりおかしな風説は山ほどあるのだ。グラティスのイメージは、大人が子どもに聞かせる昔話やおとぎ話に良く出てくる魔王の、おそらくは最も控えめな描写の一つである。
 それに、グラティスのせいばかりではない。彼はちゃんと、今回の指令を受けたときに神官長たちにこう尋ねたのだ。
「そういや、魔王ってどんな奴なんですか。上級魔族以上に魔力を有しているのは当然としても、外見とか何かわからないですかね。ガキの頃に聞いた昔話では、身の丈10グレーザはあって角や尻尾が生えてるとかって話でしたが」
 ──冷静に思い返してみれば、その時の神官長たちの反応はちょっと妙だったかもしれない。回答までにごくごく微妙な間があった気がするのだ。
「む、……そうだな。理法長、説明を」とひげ面の武法長。
「そうだ、あなたが一番そういったことには詳しいのだから」と年寄りの魔法長。
「そ、そうですね。まあ、だいたいあなたの想像通りでしょう、グラティス」と、ちょっと神経質そうなところが玉に瑕ではあるが、あと十歳若ければ口説いてもよさそうなくらいには美人な長い金髪の理法長。
 そういえば、武法長と魔法長からの視線を受けて、理法長はどぎまぎしていたように思えなくもない。
(魔王の可能性があるとはいえ、単なる上級魔族の可能性のほうが高いんだろうな)
と、その時のグラティスは思ったのだった。上級魔族よりも魔王の方が面白いから「魔王様探し」などと軽口を叩いていただけのことで、それほど本気にはしていなかった。もっとも、あの忌々しい属性使いたちが「魔王様を捜しに来た」などと言っていたから、魔王が大陸に来ていることは間違いなさそうだとは思っていたが。
(もしかして、神官長たちも魔王がどんな容姿か知らなかったんじゃねえか?)
 ……その可能性は捨てきれない。いや、その可能性がとても高いような気がする。
 そんなことに今さら思い至って頭痛を覚えたグラティスの視線の先では、赤色をまとった青年がきょとんとした顔で自分の身体を見下ろしていた。一つに束ねられている長い髪をつまみ上げ、まじまじと見る。
「あれ……俺が前に出ちまったのか」
 ゼイルでありながら色彩を異にするその男は、誰にともなく呟いた。
「まあいいや、そこで見てろよ。悪いようにはしねぇから。俺にもよくわからないことだらけだけどな」
 色彩の変化と同時に口調も変わっている。ずいぶん柄が悪い。
 佳瑠が傷を押さえ片膝をついたまま男を見上げた。苦痛をこらえ、小さな声で呼びかける。
「王……?」
 その言葉に、男の眉がひそめられた。隙のない立ち姿と不機嫌そうなその表情は、ゼイルのそれとはかなり異なる。
「王とか言うなっつっただろ。俺は違うっつーの」
 佳瑠はしばし沈思した。
「……では、森夫殿?」
 そう呼ばれると、男は実に情けない顔をした。
「その名前も気にいらねぇっつったはずだぞ、コラ」
「ですが、あなたはゼイル殿ではないのでしょう」
「まあな。今はそんな面倒くせぇことはどうでもいいだろ」
 ゼイルであった男は佳瑠の傷にちらりと鋭い一瞥をやった。
「嫌な傷だ」
 そう呟くと無造作に伸ばした手で佳瑠の額を軽くこづく。一瞬指が触れただけの額から、鮮やかな魔力が流れ込んでくるのを佳瑠は感じた。全身を駆け巡った力が光のダメージを軽減させ、傷口からあふれ出ていた血を止めた。
 佳瑠が何か言おうとするのを男は遮る。
「お前は下がってろ、邪魔だ」
 そう言い捨てると、赤い青年は数歩前に出て神官たちに対峙した。
 それを見ながら、グラティスは頭脳をフル回転させた。あの上級魔族が赤い男を「王」と呼んだのを確かに聞いた。だが、その身にまとう色彩は赤。魔族のまとう黒ではない。それに本人は王と呼ばれて不機嫌そうだ。しかし、目の前の青年からあふれ出る魔力は上級魔族を軽く凌駕している。魔王なのかどうか、判断はつかない。
(なんにせよ、あれが今回の指令の標的だろうな。いくらか疑問も残るんだが……)
 アルカスの意見を聞きたかった。ぼろぼろの魔法神官にちらりと視線をやると、彼は先程と変わらず冷たい気を発していた。さっきと同様、グラティスがいることを忘れているような感じだ。その意識は今、赤い青年だけに向けられている。アルカスの敵意と戦意とが鋭く研ぎすまされていくのがグラティスにはわかった。アルカスから発せられる“気”は刺々しさを増し、肌がチクチクするほどだ。
 グラティスは視線を戻した。神官二人の視線の先で『魔王』が「さて、どうすっかな」と腕組みして首を傾げている。余裕たっぷりな紅色の、おそらくは最強の魔族に対峙して、グラティスは知らず手に汗をかいていた。神剣の柄が滑るような気がして、握りなおす。
「想像してたのとはずいぶん違うが……あんたが魔王か」
 グラティスは低く問いかけた。『魔王』は実に嫌そうな顔をした。
「違うっつってんだろ。俺は自分が何者かなんざ知らねぇよ。ったく、どいつもこいつも……」
 グラティスは奇妙な感覚を覚えた。ほんの一瞬、神剣オル・ハ・ザークから伝わる力の流れが揺れた気がしたのだ。まるで、動揺したかのような──動揺という表現が正しいのならば、だが。
 『魔王』は言葉を続けている。
「俺はただ、うるせぇのが嫌なんだよ。てめぇらさっさと帰れ、コラ」
「……そうはいかねーんだ、これが」
 グラティスは剣を構えたまま息を整え、言った。目には強い光がある。
「魔王の発見と討伐とが、神殿から与えられた俺たちの使命だからな」
「だから、俺は違うっつってんだろーが! お前ら人の話聞いてんのかよ!?」
 地団駄を踏みそうな勢いで『魔王』はわめいたが、実際のところ、『魔王』が本当に魔王であるか否かはグラティスにとってあまり問題ではない。
「いずれにしろ、魔族は排除しなきゃならねーんだ」
 この紅の男が魔族でないという可能性は──あるにはあるが、ほとんど無に近い。こんな膨大な魔力、人間に有することができるはずがない。
「物わかりの悪い奴だな、お前! ……ん?」
 赤い男の目がスッと細められた。剣呑さを増したその表情が、ふとゆるむ。
「そういやお前ら珍しいなぁ。いにしえの闇を抱く者に、有り様を歪ませた者ってか。面白いのを使ってんだな、神殿とやらは」
「何を言ってやがる!」とグラティスは言い返そうとして、突然のまばゆい光に目を庇った。いつのまにか詠唱を始めていたアルカスが魔法を放ったのだ。いくつも大きな光球が『魔王』めがけて飛んでいく。それを皮切りに、様々な攻撃魔法が再び息もつかせぬ速さで繰り出される。
 小さく舌打ちをして、グラティスは動いた。今のアルカスには以前にもまして共闘が望めない。自分が、アルカスの攻撃や防御のタイミングを見計らって動くしかないのだ。
 攻撃魔法しか使えない魔法神官と組む場合に武法神官が必ず行わなければならないのは、間近に接近してきた敵に対して無防備になりやすい魔法神官を守ることだ。だが、
(今の場合、攻撃こそが最大の防御だろ!)
 グラティスはこれまで溜めていた気を神剣に乗せた。まだ全身が痛むから無理はできない。その分、できるだけ負担の少ない動作で気を練り上げ、最大級の衝撃波を生み出すことに専念する。
「破ぁぁぁっ!」
 最前よりもやや威力を増した衝撃波が地面をえぐりながら『魔王』に向かい、神聖魔法に追いつき、融合した。神聖魔法と衝撃波。うまく二つが合わされば、それぞれ単独で放たれるよりも何倍もの威力になる。実際、グラティスのその思惑は成功していた。何発か、続けて衝撃波を打ち込む。
 しかし、到達地点で予測したほどの爆発が起こっていない。無力化されているか弱められているかしているのかもしれない、と衝撃波を打ち込みながらグラティスは思った。アルカスも同じことを感じたのか、炎、風、雷、光と多種多様な攻撃魔法を発動させるスピードが上がっていき──
 ふと、アルカスの身体がびくりと震えた。ぱたりと魔法が止まった。操り糸を切られた操り人形のように、その身体がぐらりと揺らぐ。
「アルカス!」
 グラティスは駆け寄ってアルカスの身体を支えた。意識を失っている同僚の身体を横たえながら、グラティスは『魔王』を見やる。
 アルカスが放った最後の魔法、光の上位魔法であるライトクロスの光の十字が今まさに『魔王』にぶつかろうとしていた。
「うるせぇなあ、ったく」
 『魔王』は面倒そうに、まるで小さな虫を追い払うかのように小さく片手をぱたぱたと幾度か振っていた。無造作に見えるが、それだけで魔法も衝撃波もきれいに相殺されていく。大きな光の十字もまた、『魔王』に届く直前、手の一振りで相殺されてすうっと宙に消えた。
 ライトクロスの光が消えてしまうと、空間は何事もなかったかのように静かだった。ただ、冴え冴えとした月明かりに照らされた血色の長い髪がふわりと風になびいた。それだけだった。
 『魔王』は疲れた様子もない。おそらくは『魔王』が守ったのだろう、その背後にいる佳瑠の様子にも変わりはない。
(化けもんか、こいつ)
 グラティスはゴクリと喉を鳴らした。顔が引きつりそうだ。
 一方、『魔王』はグラティスの剣を見て、笑みを浮かべた。
「お前、いいもん持ってるな。……よう、悪ぃけどここはちょっとそいつらまとめて連れて帰ってくれねぇか。無理は言わねぇよ、ちょっと押さえといてくれるだけでいいや。あ、あと行き先を適当に決めてやってくれよな。俺わかんねぇし」
「何を言って……っ!?」
 暗闇の中で、オル・ハ・ザークを中心にして地の紋章が浮かびあがった。神剣を掴むグラティスだけでなく、アルカスをもその紋章の光が包み込む。
 グラティスはとっさに構え直そうとしたが、何故か身体が動かず、驚きに目を見開いた。
 どこからか現れた風の紋章が彼らに重なる。視界がぐにゃりと歪む。
「なんだこれ!?」
 グラティスがそう叫んだときには、その場から神官二人の姿は消えていた。
「じゃあな。もう来んじゃねぇぞー」
 紅を纏った青年のそんな言葉が、グラティスの耳朶を打った──気がした。



まだまだつづく。

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