第十三話『記憶』 担当者:あやにょ
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 フワフワと浮いているような気分だ。
(俺、このまま死ぬのかな……)
 グラティスはそんなことを思いつつ、夢見心地でどこともわからぬ場所をさまよっていた。さっきから、よくわからない幻影ばかり見ている。俺じゃない俺が、俺の知らない人生を生きている。そんな夢。いや、それとも現実?
 ああ、また深いところへ吸い込まれる……気が遠くなる……
 今にも幼い子どもにとびかかろうとしていた銀色の獣が、先輩勇者の剣圧でふきとばされた。
「あの獣は私が追う、お前は子どもを保護しろ!」
 私にそう叫んで、先輩はその獣を追った。
「他に生存者は!?」
「その子の両親はどこにいる!?」
 交錯する叫びの中、幼い子どもは血と埃に汚れた顔で目を見開いたまま動きもせず、うつろな表情をしていた。私は思わず子どもを抱き寄せた。全く反応しない子どもの様子に、その心を襲った衝撃の大きさを思った。
 どうしてこんな小さな村が魔族に襲われるのか。中央神殿への帰りに通りかかった私たちが、降って湧いたような魔族の襲撃に巻き込まれたのは偶然だった。
(こんな深夜に襲うとは……)
 村の建物のいくつかは炎に包まれ、明々と夜の闇を照らし出していた。炎はこの家の中まで照らし出す。
 ふと、この幼子がつい先程まで見つめていたものが視界に入った。床や壁に走る、大きな爪あとの数々。真っ赤に染まっている、ばらばらになったモノ。……そして、それ以上に細切れになっている銀色の毛がついた何か。あれは……さっきの獣の仲間の肉片か。
 どんなことをすればあれほど無惨になるのか、自分には想像つかない。魔法かそれに類するものによる攻撃か?
 ……ピチ。
 首筋に冷たいものが落ちてきた。手をやればヌルリと滑る。目の前にその手を持ってくると酷く赤く染まっており、怪訝に思って見上げれば……
「……」
 見なければよかった。
 仕事柄こういう光景に慣れているとはいえ、凄惨に過ぎる。こみ上げてくる嘔吐感を押し殺すのにはかなりの努力を必要とした。
(遅かったか)
 しかし、この子どもは助かった。孤児になってしまったようだが、何とかこの子だけでも助けられた。その意味では間に合ったとも言える。
 ため息をついて、自分の心をまず立て直した。次に、子どもを引き起こして「怪我はないか」と尋ねる。返事はない。ざっと見たところだと手足に細かい切り傷があるくらいだった。しかし心の傷は深いだろう。
「子どもを連れて行ってくれ。無理にでも眠らせてやらないと」
 そう言って、後から来た魔法神官に幼子を押しつけた。そいつが怪訝そうに聞いてくる。
「スレイド、お前は?」
「ちょっと行って来る。さっき、リグネムを見かけた」
「リグネムが?」
 リグネムは二つ年下の友人で、自分と同じ年に最年少で勇者になった武法神官だ。出世街道を駆け上り、すでに上級神官となっている。
「だけどなんでこんなところに?」
「知るかよ。だが、ほかの上級の奴らと何か言い争ってたみたいだった。気になる」
 遠目にちらりと見かけたときの様子が何だかおかしかった。右目のあたりから血を流していたのも心配だ。ほとんど怪我などしたことがないあいつにしては珍しい。だがそれ以上に、
(あんな表情、見たことがない……)
 あの表情の何にひっかかったのか、よくわからない。それでも気になったのは確かだった。
 そのとき、背後から緊迫した声があがった。
「おい、あっちの方で上級の奴らが死んでるぞ!」

 数日後、武法長から呼び出された私は神剣を与えられた。打ち上がったばかりだというその神剣がオル・ハ・ザークだった。いきなり三つ名の神剣を与えられた理由は何となくわかった。所持すべき者たちが減ってしまったからだ。
 本来ならあいつが先に神剣を手に入れるはずだったろうに。いや、あいつなら最高の威力を誇る四つ名の神剣を持てたかもしれない。一時代に数本と存在しない四つ名を。
 しかし、リグネムはもういない。あいつだけではなく、神剣を所有する予定だった上級神官が何人も死んだ。死体の判別が付かないほどの無惨な姿になって。しかし、何故彼らがあの村にいたのかはわからない。あの獣を追った先輩も別の場所で悲惨な姿になって発見された。……まだ身元を確認できただけよかったのかもしれない。
 ともかく、自分は神剣を手に入れた。それだけは確かだった。
「……様、アルカス様」
 アルカスは身体を揺らされていることに気付いた。飛び起きる。全身に痛みが走った。
「ああよかった。大丈夫ですか」
 全身の痛みはどうにも我慢できないが、それでも生きている。大丈夫だ。
 そこまで思ってから目線をあげた。いるはずのない神父がそこにいる。
「神父様、なぜここに……?」
「あなた方が森へ入られてからずいぶんたったころ、森中を光が覆いました。それが気になって追い掛けてきたのです。私がここへ辿り着いたときにはお二人が倒れておられました」
「そうだ、グラティスは!?」
「息はあります。しかしここは北の地、夜になればまだかなり冷えます。私とあなたで何とか彼を教会まで運びたいのですが」
 言われてみればかなり肌寒い。夕刻でこれでは、夜となっては凍え死んでしまうだろう。
「動かしても平気なのですか? 瀕死じゃ……」
「ええ、瀕死一歩手前くらいです。急がねばなりません。ですが、あなたがもう少し回復するのが先です。まだ立ち上がるのも辛いでしょう」
「俺は大丈夫……」
 立ち上がろうとしたアルカスは、再び全身を貫いた痛みにくずおれた。
「無茶をなさらないで下さい! お二人とも何度回復魔法をかけても目を開けてくださらず、どれだけ心配したことか! いったい何があったのですか。それほどの傷と体力の消耗、それにこのあたりの様子、ただごとではありません」
 言われて周囲を見回せば、夕方の太陽に照らされて橙色にそまった草原は酷い有様だった。木々はなぎ倒され、根元から引っこ抜かれたようになっているものもあり、客観的に見てみれば確かにただごとではない。
「グラティスがオル・ハ・ザークを得た代償、とでも言うのでしょうか」
「オル・ハ・ザーク……」
 神父の目の奥に複雑な色が浮かんだ。それに気付く余裕は今のアルカスにはない。神父の治療を受けながら、グラティスが神剣を手に取ったこと、衝撃波で周囲の骨どもを叩きのめした後、スレイドと名乗る男の霊がグラティスの身体を乗っ取って、自分がそれと戦う羽目になったことを手短に説明した。神父はときおり回復魔法を使うためアルカスの話を中断させたが、全て聞き終わるとため息をついた。
「……そうでしたか」
「グラティスの中にそいつはまだいるのでしょうか?」
「いえ、私が見た限りでは大丈夫です。とくに悪しきものも感じません。完璧な払い落としがなされたと見ていいでしょう……光の上位魔法ですね。お見事です」
 アルカスはドキリとした。
(そんなことまでわかるのか)
 振るわれた魔法の属性だけならともかくレベルまで言い当てるとは、この神父、ただ者ではない。
(だけど、どうして俺は……)
「さて」
 アルカスの思索を遮るタイミングで、一通りの治療を終えた神父は言った。
「教会へグラティス様を運ぶくらいまではあなたの体力が保つと思うのですが、いかがです?」
 神剣はよく手になじんだ。翌年には上級神官の試験に通って、いろいろと回される仕事の幅も増えた。オル・ハ・ザークとともに大陸中を飛び回ることに生きがいを感じた。
 数年後。地方の小さな教会から舞い込んだ奇妙な訴えに、神殿は極秘に数人の勇者を派遣した。消息を絶った彼らを追って、私もまた数人の仲間と共に派遣された。
 そして、思わぬ再会をした。

「そんな……馬鹿な。一瞬で……」
 山中に開けた草原で私が目にしているのは、仲間たちの倒れた姿。獣にやられたような喉元の傷痕。いや、まさしく獣がやったのだ。目の前にいる黒衣の男が召喚した獣……忌まわしき黒い獣が!
 しかし、その獣よりも男の方に、私の眼は釘付けになった。
「生きていたのか……?」
「久しぶりだな、スレイド。まさかここでお前に会うとは。いや、お前の活躍の噂からすれば当然か?」
 自嘲的な笑みはあの頃のまま。しかし色彩が違う。その発する気配が違う。私は悟らざるを得なかった。……リグネムは以前のリグネムではないのだ。だが、とても信じられない。
「馬鹿な。それは魔法…しかも召喚魔法。武法神官のお前にそんな魔法が使えるわけがない! それに、どうしてこんなことを……」
「どうして、だって?」
 リグネムは静かに笑った。金色だったはずの髪が風になびく。その色は茶色……細められた瞳も同様だ。瞳は青かったはずなのに。そんな馬鹿な。ありえない。
 目の前の男は笑ったまま続ける。
「俺は五年前……いや、もっと前から不思議に思っていたことがある。お前は疑問に思ったことはないか?」
 言いながら、腰ほどの高さもある獣を撫でている。獣は気持ちよさそうに男に寄り添い、猫のように喉を鳴らした。黒色の毛並みが揺れる。混乱する私に、男は言葉の爆弾を投げ込んできた。
「この大陸は歪んでいるんだよ、スレイド。お前たちも、俺たちが信じてきた世界のあり方も……神も」
 私は鋭く遮った。これ以上言わせてはならないと思った。
「やめろ、リグネム!」
「誰のことだ?」
 男の笑みはいつのまにか消えていた。
「神学において、闇が禁忌とされている理由を知っているか、スレイド?」
「神学問答なんかどうでもいい! 退いてくれ、リグネム!」
「退くわけにはいかない……神殿から本当の意味で自由になるために。お前こそ退いてくれ。お前には世話になった。できれば戦いたくない」
「俺は退かない」
「……そうだな、それが『勇者』だったな」
 リグネムの声は氷点下のような冷たさを含んでいた。自嘲の色も。
 この男に勝てる気はしない。だが、止めなければ。
 グルル、と何か尋ねるような獣の声。それに答えるかのようにリグネムが口を開いた。
「いや、いい。これは俺のすべき仕事だ。お前はもう帰っていいぞ、≪ディル≫」
 その声と同時に彼の足下の獣が消え、こちらが身構えるより早くリグネムが動いた。接近戦になってしまい、私は内心舌打ちした。衝撃波は生み出すのにある程度の距離が必要だ。これでは神剣の価値が半減する。距離を置かねば! ……しかし、そんなことを許してくれる相手ではない。こうなると単純な剣の技量が勝負を左右する。そして、リグネムは剣技でも体術でも誰にも負けたことがない男だ。さらに剣を打ち合うこと数合。
 ガキン。
 鈍い音とともにこの手から神剣がはじき飛ばされ、リグネムの長剣が正面から首筋にあてられているのを知覚した。あいつは口を開いた。
「もっとはっきり尋ねてやろう。お前は神を疑ったことはないか?」
 私はカッとなった。
「お前が神を冒涜するのか! 最年少で上級神官に上り詰めたお前が!?」
「何が悪い。愛する者を神殿に殺された……その痛みがお前にわかるか?」
「何、を……」
「神殿の本当の姿を、俺は見たんだ」
 あいつの目の奥に怒りが燃えているのに気付いた。静かな、しかし激しい炎のような怒り。この男がこんな激情家だとは知らなかった。あるいは何かが彼をそう変えたのか。としたら、何が彼を変えたのだろう?
「……何を見たんだ? 神殿が何だというんだ。お前、何を知っている?」
 この男がこれだけのことを言うのなら、よほどのことに違いない。
 私が尋ねると、リグネムは強い意思のこもった目線だけで私の動きを封じて剣を下げ、尋ね返してきた。
「俺と一緒に来るか、スレイド。お前がいてくれれば心強いし、なによりお前を殺さなくて済む」
「だからお前はいったい何をやろうとしているんだ」と問おうとしたそのとき、リグネムの顔色が変わったのを見た。次の瞬間、首の後ろに鋭い痛みが走った。景色が流れて、全身に衝撃が走った。どうやら自分は倒れたらしい。
「スレイド!」
 あいつの声。こんな驚いた声は珍しい。そうだ、どうして俺は倒れているんだろう?
 数グレーザ先に、大地に突き刺さったオル・ハ・ザークが見えた。私の剣……。そして自分のすぐ目の前に、リグネムの名を捨てた男。
 霞んでいく視界。朦朧としていく意識に最後まで残っていたのは、あいつの目の上の……おそらくはあの時の古傷。
 お前に何があったんだ。何を考えているんだ……。
 教会の、グラティスに提供された一室。夜も更けて日付がすでに変わっているが、アルカスと神父はグラティスに付きっきりだった。だが、テキパキと治療のために動く神父とは対称的に、アルカスは同僚の枕元の椅子に座りこんで、じっとグラティスの様子を見つめている。
 湯気の立ったカップを持って部屋に戻ってきた神父に、アルカスは問いかけた。
「グラティスは大丈夫なのでしょうか? ピクリとも動かないし目を覚まさないのは、まさか……」
 グラティスの身体に目立った外傷はない。しかし、見えないダメージが大きいはずだ。自分の放った魔法が原因でグラティスが死んだりしたら……。アルカスの不安はそこにある。そんな気持ちを知ってか知らずか、神父は別のことを言った。
「アルカス様。グラティス様の手から神剣を離してあげて下さいませんか?」
「あ、ああ」
 たった今まで気付かなかった。自分を責めつつ、言われるままに神剣を取り上げようとするアルカス。しかし、どういうわけかグラティスの手から神剣を取り外すことができなかった。どんなに力を込めて引っ張ってもびくともしない。
「……やはりあの話は本当なのですね」
 神父の呟きに、アルカスはガバッと振り返った。
「やはりって、あの話って、どういうことです?」
「神剣を手にした者は、しばらくの間このように手から神剣を外すことができなくなるそうです。ときには人事不省になると聞いていますが」
「なんだって!?」
 喚きかけたアルカスを、神父は「ああ、慌てないでください」と止めた。
「知り合いの鍛冶師から聞いた話では、なにせ神の名を持つ剣ですから、三つ名ともなれば持ち主との間に特殊な結びつきができるとか」
(もっとも、非業の死を遂げた勇者の剣を再利用するなど前例がありませんから、実際には何が起こっているのか……)
 だが、この魔法神官を不確定な情報で心配させることもない。この若者には、自分が出来ることを精一杯してやりたかった。だから神父は微笑んで、手にしていたカップをアルカスに差し出した。
「グラティス様よりもあなたの方が外傷は多いんですよ。あなたこそ休まなければ。さあ、ゼゼグン草のお茶です。残さず飲んでくださいね」


 グラティスは頭を振った。ようやく意識がはっきりしてきた。
(「お前は神を疑ったことはないか?」)
 リグネムと呼ばれていたあの男の声が、耳の奥に響く。あれは禁忌。考えてはいけない。危険だ。
「それにしても、ここはどこだ……?」
 見渡す限り何もない。まだ夢の中なのかと首を傾げたところへ、背後から声がかかった。
「おや、客人か。久々だな」
 グラティスがとっさに振り向いた先にいたのは見知らぬ男。深い茶色の髪を後頭部で一つに縛っている。年の頃は自分とそうかわらないようなのに、髪と同色の瞳の奥にはどこか超然とした色をたたえていた。
「……誰だ?」
 男は面白そうに手を打った。微妙に古くさい話し方をする。
「ほう、俺が見えるか? 声も聞こえるのか? 嬉しいな。だが何故だ? ……そうか、その血のせいだな。珍しい。薄いながらも闇の血を昔のままで保っている者がいようとは」
 グラティスは耳を疑った。剣呑な声で聞き返した。
「何のことだ?」
「名を聞く価値はありそうだ。おぬし、名は?」
「何のことだと聞いているんだ!」
 灰色と深い茶色の視線がぶつかり合う。ややあって、男がニヤリと笑った。
「おぬしの話だ。光の魔法での回復が人よりも遅かったりするだろう」
「闇の血って……俺が魔族の血を引いているっていうのか!?」
「あるいは、両親のどちらかが短命ではなかったか?」
 男の言葉に、グラティスは困惑した。
「……魔族なら人間よりも遙かに長生きだろうが」
 両親のどちらかが長命だったというならともかく、その逆を聞かれる理由がわからない。確かに彼の母親は元気だったにもかかわらず若くして死んだが……
「古の時代、闇に愛された彼らは極端に短命だったよ」
「??」
「赤の馬鹿が情にほだされてよけいなことをするから、いや、自尊心ばかり高い白の野郎が悪いんだが、だがしかしなあ……あの子が人間に惚れっぽかったのがそもそも……」
 グラティスが疑問にまみれてしびれを切らす前に、男は「まあいい」と独り言を打ち切った。そして唐突に尋ねる。
「おぬしの名は?」
 短い問いだが、逆らえない何かをそこに感じ、気付いたときには答えを口に乗せていた。
「グラティス。グラティス・レイデンだ」
「ではグラティス。おぬしの血に関しては、あいつに対する義理もある。オル・ハ・ザークを使うのなら、おぬしの回復は“地”が請け負うだろう。俺もあの野郎はあまり好かないしな、他の属性よりは回復が早いはずだ」
「何を言ってんだかよくわかんねぇ」
 まったく、わけがわからないことばかりだ。
「もしもここで話したことを覚えていられればだが、スレイドを憎まんでやってくれ。あれも何かとおかしなものに巻き込まれたのでな。あの男が呪いを解いていなければ、おぬしらはあの場についた瞬間にでも死んでいたぞ。スレイドがおぬしに神剣の扱い方を示す余裕ができたのも、そう考えればあの男のおかげか」
「あの男?」
 尋ね返したその瞬間、脳裏に映像が閃いた。
 闇の中に声が聞こえる。
「なるほど、この惨状はこの術のせいか」
 どうやら声の主は男らしい。ため息をつくと、ただ一言唱えた。
「解呪」
 神剣にまとわりついていた闇の紋章が消える。それと同時に周囲が明るくなっていき、男の姿を照らし出した。
「微弱ながら魔力を感じたので来てみたが、また違ったか……」
 もっと早く見つかると思っていたのに、と肩を落とす男。長い髪が風に靡いた。
 ふっと映像が消え、グラティスは我に返った。
「今のは、魔族……?」
 黒い髪に黒い瞳。そんな特徴を持つのはそれ以外に考えられない。しかも、あれは……
 グラティスが結論を出す前に、男はひらひらと手を振った。
「ほれ、そろそろ行くがよい。ここは長居するところではないからな」
 男が追い立てるのと同時に、グラティスの全身が浮き上がるような感覚に包まれた。
「ちょっと待てよ。俺は名前を教えたのに、あんたは教えてくれねぇのか?」
 急激に意識が遠ざかる。だが、男が破顔したのを見たとグラティスは思った。
「俺の名前は……」


 グラティスは今度こそ本当に目を覚ました。南向きの窓からは強い日差しが差し込んでいる。その眩しさに目を細めた。
(昼だな……ここは教会か)
 身体を寝台から起こそうとして、何故か神剣を手にしていることに気付いた。怪訝に思いつつ剣を横に置き、全身を調べる。とくに目立った傷はないようだ。寝ている間に神父が治してくれたのだろうか。しかし、まだ体が重い。
「目を覚まされましたか。おはようございます」
 戸が開く音と共に神父が入ってきた。
「あぁ。……アルカスは?」
「そこで眠っていますよ」
 神父の視線を追うと、部屋の隅にある長椅子にアルカスが身体を投げ出していた。毛布がかろうじて引っかかっている。
「明け方まであなたについていましたが、さすがに体力が保たなかったようですね。何が起こったか覚えておいでですか?」
「……ああ、だいたいは」
 長い夢を見ていたような気がする。それでも一応夢と現実の区別はついていると思う。夢の方はいくらか曖昧だが……
(そういや俺、取り憑かれたんだっけ)
 ブルリと震え上がったグラティスを見て、神父は「もう一枚着ますか?」と上着を持ってきてくれた。取り憑かれたことなど忘れてしまおう。そうだそうだ、忘れてしまおう。……できるだけ。
「私がお二人を見つけたときは、外傷は無かったもののグラティス様の方が瀕死の状態だったのですが……今ではあなたの方がアルカス様よりも元気そうですね。神剣のご加護でしょう」
 グラティスはふと神剣を手に持ってみた。初めて持ったときほど“気”が吸い込まれない。ゼロではないが、向こうから何か返ってくるのを感じる。まるで神剣が息づいているかのようだ。
 その息づかいに呼び覚まされるかのように、自分の身体の奥深くで何かがドクンと脈打った。
(「珍しい。薄いながらも闇の血を昔のままで保っている者がいようとは」)
(「オル・ハ・ザークを使うのなら、おぬしの回復は“地”が請け負うだろう」)
 脳裏にふと浮かんだ言葉。まだ頭が混乱している。わからないことばかりだ。
「神父サンの治療のおかげだよ、きっと」
 グラティスはアルカスの毛布をなおしてやっている神父に言った。
「なぁ神父サン、やっぱりあんたの名前を聞かせてくれねえか?」
 アルカスとグラティスは一週間前にも同じ質問をしたが、「名乗るほどの者ではありません」と神父は頑なだった。しかし、神父の治療の腕はかなりのものだ。神殿付きの上級医療士だと言っても通じるだろう。こんな田舎にいるのが不思議である。
「機会を見つけて東の神殿にあんたのことを伝えておくよ。こんな上級医療士並の治療ができる神父を山奥の森に放っておくな、ってな。だから名前を教えてくれよ」
 神父はとまどったようだが、グラティスが重ねて頼むとようやく名乗った。
「ジーンと申します」
「ジーンか。本当にいろいろ世話になったな」
「当然のことをしたまでですし……お礼を言わなければならないのはこちらの方です」
「?」
 神父は一瞬ためらったが、とつとつと語った。神剣に視線を注いで。
「実は、その神剣オル・ハ・ザークの以前の持ち主スレイドは、私の兄だったのです」
 グラティスは目を見開いた。そして恐る恐る尋ねる。
「まさか神父サン、あの状態を知ってていろんな奴をあそこへ送り込んだんじゃねぇよな?」
 神父は弾かれたように顔を上げて否定した。
「まさか! ……私がこちらへやって来たのは二年ほど前のことでした。老衰で亡くなった前任者から神剣のことを聞いて、兄の剣かもしれないと思ったのですが、神殿に尋ねても答えを得られず……そのかわりに無理を言ってこちらに派遣していただいたのです。しかし、ここまで来たはよいものの兄の死を確認するのが恐ろしく思え、一人であの場へ赴く勇気もなく……」
(確かに極秘任務ではあったよな)
 まして失敗に終わっているのでは、権威を尊ぶ神殿が公言しないのも当然か。
 そこまで考えて、グラティスは訝しく思った。
(……今の、何だ?)
 自分の記憶にとまどうグラティスをよそに、ジーン神父は続けた。
「時折、どこから聞いたのか神剣を我が物にしようとする無頼者がやって来ました。私は止めましたが、幾人かは森の奥へ入っていき……前任者の言ったとおり二度と帰って来なかったのです」
 そのなれの果てがあの骨ということなのだろう。
「昨日、あの地が光の魔法で浄化されたのを感じ、あなた方を追い掛けました。そして倒れているあなたの手の中に神剣があるのを見つけたのです。銘はあなたの手に隠れて見えませんでしたが、アルカス様がオル・ハ・ザークだと教えてくださいました。……それは兄の使っていた神剣です」
 神父は微笑んだ。
「あなたの手にその神剣がおさまっているということは、兄の魂は救われたのでしょう」
「そう…なのか?」
「元の持ち主が納得しない限り、神剣が他人の手に渡ることなどないはずですから。兄はあなたにその剣を託したのです」
 ジーン神父の言葉には心がこもっていた。
「……兄の魂を救ってくださったことに心から感謝します。魔族に倒されたという兄も、その剣であなたが活躍して敵を倒してくだされば、きっと喜ぶことでしょう」
「その神剣で魔王を倒せなかったらスレイドは成仏しないぞ」と言われたような気がしてブルッと震えてしまったグラティスは、武者震いだとジーン神父が勘違いしてくれることを密かに祈った。
(あれ……でも、最後にこの剣であいつが戦ってたのって……あれ?)
「さあ、遅い朝食にしませんか? ゼゼグン草の薬湯もたっぷり作ってありますよ」
 神父の言葉であの薬湯の強烈な味を思い出してしまい、グラティスは思考を放棄した。


「なんでなんで、なんでっ? ねえシェリ、何だと思う? あのクジーレ様があんな顔するなんて」
 他の地域から入ってきた情報まで含めて完璧に資料を揃えるのに手間取り、ようやくクジーレの元に報告しに来たサジャとシェリであったが、なにやら上司の様子がおかしかった。シェリはフェルエドを喚ばされて疲れているが、元気なサジャはそんなことおかまいなしに疑問をぶつけてくる。シェリはぶつぶつと返事した。
「俺に聞いたってわかるわけないだろ? でも、アルカス・ヴィラードだっけ、あの名前をお前が言ってから急に不機嫌になったぜ。売り出し中の勇者なんだろ、そいつ。そのへんが気に入らなかったのかな」
 何故かクジーレは勇者に対して厳しい。それはけっこう有名な事実だ。
「なんで売り出し中だと気に入らないのよ、シェリ。それに今まで何度か勇者の話を出したことあるけど、クジーレ様は全然不機嫌になったりしなかったよ。っていうか、今日のは不機嫌っていうより……あれは……」
 そのまま黙り込んだサジャを、シェリはじっと見つめた。
「あれは?」
「何だろう……」
「サジャ、頼むよ〜〜」
 シェリはフェルエドの背に顔をうずめたかったが、フェルエドをもう帰してしまっていたので、かわりに近くの壁に寄りかかった。
「それも気になるけどさ、もう一つ。あんなキョトンとしたクジーレ様も初めて見た」
「そういえば、そうだね」
 サジャもその様子を思い返してみた。報告の最中にクジーレが呆気にとられた顔をしたのだ。それは大変珍しいことだった。
 二人は顔を見合わせた。
「アゼットって何かあるのかなあ?」


2001.11.08 お話はまだまだ続く。

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